母が亡くなってからこっち

母が亡くなったのは平成31年の春分の日だ。

そのころには次の元号が決まっていた。まだあのウイルスは名前も知られていなかった。

世間の様子がおかしくなってきたのがその年の暮れからである。

通夜のときは「せめて令和を迎えられなかったか」と思ったものだが、今にして思えば、それもあの世の計らいであったかもしれぬ。

騒動以来、多くの人に悲しまれながら送り出されるというのは、なかなかに難しい状況とはなっている。

久しぶりに見た顔も、マスクを付けていてはいまいちピンと来ないだろう。

通夜の数日後に、以前勤めていた会社の給与未払いの申し立てが通って、中央労働基準監督署まで出向いた。やっと倒産騒動にも一段落ついた感じであった。

そして49日も終わり、一息ついたところで父が倒れた。

過労とかそういうレベルではない。脳卒中を起こしたうえ、小腸の入り口あたりにGISTが見つかった。一時はICUである。

入院も一人ではできず、保証人が必要で、書類を色々と書かされた記憶がある。

法事に引き続き、実家の家事を含む用事や、着替えなどを用意するため、週に何度か会社を早退するなどした。有給休暇なんてすっからかんである。

父は劇的な回復を果たし、また仕事を始めるようになった。

さすがにもう放任はできないので、父には毎日生存報告のメールを送ってもらうようにして、私は月に1回は父と会うようにした。

そして騒動が本格化してきた。

お陰様で父も私も変わりなく元気にやれている。ありがたいことである。

ありがたいことではあるが、これも仮初めでしかない。

人生、仮初めと言ってしまえばそれまでではあるが、この状態が10年も続いたらそれは一つの奇跡であろうと思う。

次の人生の波にうまく乗っていけるように仕込みをしておく必要がある。

世の中、お金だけあっても駄目なのである。

歳をとってくると、若いものの承諾や保証人が必要になるのだ。老人ひとりでは、携帯のキャリアひとつ変えられない。

いまのままだと20年後の人生がハードモードになってしまう・・・と考えるとジリ貧のようにしか感じられなくなる。

しかしここは踏ん張りどころである。

結果としてジリ貧であったならば、それはそれでしょうがないが、まだ何も決まっていない将来を見て、ジリ貧だと思うのは、ジリ貧に向かって歩き出すようなものである。

いまの社会がこれからも続くわけでなく、いまの人間関係が続くわけでもない。良くも悪くも環境はどんどん変わっていく。

いまの延長ばかりで物事を考えると発想が小さくなってしまう。

いまの自分を知って、足りざるところを補い、強みを伸ばすという努力をした上で、もっと大きな目標を持つことも大切だ。

そんな遠くばかり見ていても、明日にはこの世をおさらばしているかもしれず、地に足をつけて、機嫌よくやっていくあたりが最適解なのだろう。

親が亡くなると人生観が変わるというのは、ごく自然の状態である。親から亡くなるのも生まれた順番通りである。

結局は一日一日の積み重ねでしかない。気楽にやっていこうではないか。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

水蕗をフォローする